松原むかしばなし(其の五)

松原混声に60年以上在団し、合唱連盟の活動でも活躍されている野村維男さんによる「むかしばなし」シリーズの第5回です。元は団員向けに執筆されたものですが、合唱文化の歴史の一端を知ることができる貴重な資料でもありますので、ご本人の了解を得て公開しています。

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遊びの松原

2020年5月7日
野村維男

今はほとんど言われませんが「遊びの松原」という「肩書」がありました。対語は「学びの湘南」です。

湘南市民コールとの合同演奏会が決まり、合同合宿を行うことになりました。場所は確か城ケ島ユースホステルでした。1日目に合同演奏曲の練習をして、2日目は単独演奏の練習だったと思うのですが、松原のメンバーからブーイングが出ました。2日目はフリーだと聞いていた、というのが言い分。関屋先生も私もそのような覚えはないのですが、もしかすると初めての合宿に人数を集めるために「海も近いから」程度のことは言ったかもしれません。押し切られた関屋先生の「しょうがねぇなぁ」の一言で、練習を続ける湘南を置いて松原のメンバーは海へ遊びに行ってしまいました。のんびりした時代でしたね。以来、関屋先生からも湘南のメンバーからも「遊びの松原」と言われることになりました。

「遊び」と言っても、その頃はスキー、ハイキング、ボウリング、ソフトボールなどスポーツ系が多かったように思います。

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冬はシーズン何回かスキーに行っています。木曜の練習後に夜行で白馬あたりに行くのが定番でした。20人以上参加したこともありますし、数人のグループという場合もありました。当時宅配便はなく、道具を担いで持って行きますから木曜日の練習会場にはスキーが林立していました。

関屋先生が参加されたこともあります。最初で最後のスキー経験のはずです。1968年の会報に関屋先生の文章が掲載されていますので、一部抜粋します。

『生まれて初めてスキーをした。(中略) 4つものリフトに乗って山の上に上げられた時 ― 私の気持等全然無視したこんな横暴なことを、指揮者として私はしたことがない ― 僕の恐怖は頂点に達した。(中略)だが、新雪のバス道を滑った時、僕は初めて幸福だった。こんな道をどこまでも滑ってゆきたかった。』

スキーの様子。右から7人目の黒いヤッケとベージュのズボンが関屋先生。

春、秋のハイキングではあちこちに出かけています。思い出すのは、高尾山、御岳山、こどもの国、昭和記念公園など近場で休日の日帰りです。高尾山などは結構ハードなコースだったような記憶があります。私の子供が小さい時にはこどもの国や昭和記念公園に連れて行って松原のメンバーに遊んでもらったこともあります。

夏には合宿が遊びの場でもありました。確かに練習はしたのですが、遊んでいる時間が多かったようで、そちらの方が記憶に残っています。メンバーの別荘(普通の民家でしたが)が三浦海岸にあり、そこで合宿したことが何回かあります。海まで1分もかからない場所でしたから午後は海岸に出て泳いだり、砂浜で遊んだりしていました。そして何と、合宿用にヨットを買ってしまいました。といっても発泡スチロール製で、車の屋根に載せて運べる軽さでしたし、当時若かった何人かでお金を出し合って買える程度のものでした。それでも帆を揚げて海に出るという楽しみが増えました。もっともある日、大型の本格的なヨットが近くにやってきたときは、少々惨めな思いをしたものです。

海辺での一枚。後方の大きな布がヨットの帆布。

広場のある合宿場所ではソフトボールでした。男声が中心でしたが女声も何人か加わっていました。ある夏の合宿でのこと、センターを守っていた関屋先生の所へ打球が行き、捕球し損ねた先生が転倒されました。「大丈夫、大丈夫」とおっしゃるので安心していたのですが、翌日からの早大高等学院グリークラブの合宿で体調不良を訴えられ、骨折されていたことが分かりました。学院の合宿はお流れになり、いらか会の長老から「オヤジにソフトボールなんかさせるな!」とキツイお叱りを受けました。その後しばらく関屋先生にはソフトボールを遠慮していただいていましたが、それはそれで少々淋しそうにゲームを見ておられました。

合宿での遊びの伝統は河口湖のサニーデリゾートでの初期までは続いていて、午後にグランドを借りてのドッジボール、夜の「肝だめし」や「花火大会」もありました。

当時ブームだったボウリングもやりましたし、屋内でも「お歌会」それに今や「絶滅」しましたが「ドカン」というカードゲームをやっていました。「ドカン」は4~5人で遊ぶゲームなのですが、10組くらいに分かれて勝ち抜きで「ドカン選手権」を争ったりしたものです。

このように書いてくると別にどこの合唱団でもやってそうなことで、さして「遊びの・・」とまで言われる筋合いはないように思えます。

おそらく、「遊びの松原」の肩書がついた頃のメンバーのほとんど全員が20代前半、年齢層が少し上だった湘南から見ると、遊びにかけるエネルギーの凄さにあきれた結果の命名だったのでしょう。

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最近は全員を対象としたイベントが新年会、合宿の懇親会、本番の打ち上げなどの飲み会中心となり「遊びの松原」はどこかに行ってしまいましたが、これはこれで時代の変化を表しているのだと思います。いろいろな価値観を持った人がたまたま合唱で繋がっているのですから、練習やステージ以外の場では、気の合った仲間が誘い合って好きな事をすることで良いのだと思います。でも時にはみんなで集まって屋外でなんかやれたらならなぁ、と思う世代ではあります。


※本稿に記載した内容は野村維男個人の意見・感想であり、松原混声合唱団としての見解ではありません。

編者追記

関屋先生にとって、スキーは殊のほか良き思い出になっているようで、松原の第17回演奏会(2003/2/22)のパンフレットに「松原混声合唱団の昔話というと、昔はよくスキーに行っていたことを思い出す。勿論、私は行ったことがなかったが、(中略)ある時、遂に私も連れていかれて、唯一の経験をしたのだが、一回だけだったせいか、いゝ思い出になって忘れられない。」とお書きになっています。(真下洋介)