松原むかしばなし(其の八)

松原混声に60年以上在団し、合唱連盟の活動でも活躍されている野村維男さんによる「むかしばなし」シリーズの第8回です。元は団員向けに執筆されたものですが、合唱文化の歴史の一端を知ることができる貴重な資料でもありますので、ご本人の了解を得て公開しています。

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湘南市民コール・松原混声合唱団合同演奏会

2020年5月28日
野村維男

今回はこれまでもしばしば話題にした、湘南市民コールとの合同演奏会。1963年から1988年までの間に22回の合同演奏会を持ちました。年数との勘定が合いませんが、開催のない年が3年ありました。

プログラムで振り返るとこの演奏会には松原が糧にしてきた多くの物が詰まっていることを改めて感じますし、関屋先生のこの演奏会に対する姿勢に接することができます。 湘南との長い付き合いのなかでお互いが刺激し合ってレベルアップしてきましたし、それが晋友会の基礎にもなっています。ふたつの合唱団が今でも良き友だちでありライバルであることは嬉しいことです。

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合唱曲入門

合同演奏会が始まった頃のプログラムを見ると、その時代の日本の合唱曲の代表作、清水脩、石井歓、大中恩、小倉朗、髙田三郎などの作品を取り上げています。

第1回のメインステージは清水脩「山に祈る」でした。山で遭難して亡くなった若者の手記をテキストとした曲なのですが、母親のナレーションが加わります。このナレーターに夏川静江さんという当時のベテラン女優さんを引っ張り出したのが湘南のメンバーだった伊集院俊光さん(合唱指揮者・元神奈川県合唱連盟理事長)でした。京都まで出演交渉に行き口説き落としてこられました。このナレーションの凄さは忘れられません。俳優さんの演技力とはこういうものなのだ、ということを実感しました。松原の単独ステージは石井歓「白い季節の歌」でした。初めて歌った組曲でしたが、今でもOB・OGの中でこの曲の想い出を大切にしている人がいます。

第3回では三善晃「小さな目」を単独で歌っています。松原初の三善作品という訳です。当時の松原にとっては難曲でしたが、現在に至るまでの数々の三善作品を歌うたびにこの時のことを思い出しています。

5回目からはヨーロッパの合唱作品がプログラムに入ってきます。フォーレ、ドビュッシー、ブラームスが登場します。第5回のフォーレ「レクイエム」のソリストはソプラノ・瀬山詠子先生、バリトン・大久保昭男先生(昨年までヴォイストレーナをお願いしていた)、そしてオルガンとハープでの演奏でしたが、オルガニストはなんと田中瑤子先生(!)、田中瑤子先生との出会いがピアノではなくオルガンだったことが何とも不思議です。この後しばらくの間ピアノは田中先生との協演が定番となりました。

ブラームス「愛の歌」(早口ドイツ語に苦労)、三善晃「嫁ぐ娘に」、フォーレ「ラシーヌ讃歌」などもこの時期に出会っています。

第1回から第8回までの演奏会の選曲には関屋先生の意図を強く感じます。日本の合唱曲の「今」や、ヨーロッパの代表的な作品を湘南・松原にしっかりと伝えようとされたように思えるのです。そしてこの合同演奏会が始まってからの両合唱団の成長を意識した選曲にもなっているのではないでしょうか。最初の頃は演奏面も運営面も湘南にリードしてもらっていた松原もだんだんと独り立ちが出来るようになりました。

様々な挑戦

第9回(1972年)から第15回(1978年)まで演奏会は2回公演となりました。これまでは東京での開催でしたが、これには湘南の東京での演奏機会を持つ狙いもあったと思います。それをもう一歩進めたのが東京・横浜2回公演です。会場は東京が都市センターホールかイイノホール、横浜は県立音楽堂でした。横浜の公演の1週間後に東京公演というようなスケジュールでした。

この時期にはいくつかの試みもされていますが、その一つがロックミュージカルです。第10回で取り上げたのが「ジーザス・クライスト・スーパースター」。このミュージカルは映画や劇団四季の公演で話題になっていました。エレキバンドの伴奏、プロの俳優2人によるストーリー進行、マイクを使ったソロ、照明、合唱団員の振りつけなど、演出家を依頼しての演奏は評判になりました。翌年には「ゴッドスペル」というミュージカルを演奏しました。こちらは合同演奏会だけでなく、松原が単独で招かれた音楽祭や他県のコンクールのアトラクションなどでも短縮版のような形で歌っています。最近ではミュージカルや合唱オペラなど大掛かりな演出を加えた演奏は珍しくありませんが、私たちの演奏はその「はしり」で、合唱の可能性への新たな試みでした。メンバーも踊ったりするのを結構楽しんでいましたし、あまり目立たなかった人が抜群のソロを披露したりしました。このロックミュージカルと同じ演奏会の別のステージがバッハ「モテット」だったりブルックナー「ミサ曲」だったことも味わいのある構成だったように思います。

第9回から15回までの「2回公演時代」にはバッハ、R・シュトラウスが何回かプログラムに挙がっています。個人的にはバッハのメリスマに苦心惨憺したり、R・シュトラウス「Die Tageszeiten」(男声)の迫力に圧倒されながら歌ったりしましたが、これも新しい挑戦でした。

合同演奏会は大体において合同2ステージとそれぞれ1ステージの単独演奏というパターンだったのですが、この頃になると全ステージ合同という回も増えてきました。湘南、松原ともにメンバーが増え合同ステージには100人以上が出演したと思います。その人数を活かしながらの選曲も当然ながら関屋先生はされていて、その中にはオーケストラとの協演も含まれていました。第14回と15回ではバッハ「モテット5番、6番」「マニフィカート」そして團伊玖磨「岬の墓」を東京アマデウス室内管弦楽団というアマチュア・オーケストラの協力で演奏しています。

新しい合唱曲との出会い

1979年には合同演奏会は開催していません。松原も湘南もコンクール全国大会で金賞を受賞したこともあってステージが増えてきて、湘南はブルガリアでの国際合唱コンクールに出場することになり、松原もこの年に3月と10月の2回の演奏会を開催するなどスケジュールの調整がつかなかったことが原因ですが、十数年の時の流れの中で合同演奏会の役割を見直す良い機会になったとも言えます。 翌1980年の第16回からは1回公演に戻し、東京(新宿文化センター)と藤沢(藤沢市民会館)で交互に開催することになりました。16回からは委嘱、初演が多くなったことに特徴があります。この回では2曲が初演されています。まず、湘南・松原合同委嘱作品の湯山昭「息づく日々」、そして新実徳英「幼年連祷」です。笹川賞作曲コンクールで第1位となったのが、組曲の第1曲の「花」でした。松原が発表演奏会で歌ったのを聴かれた新実先生が関屋先生に組曲の初演を依頼されて、この合同演奏会で松原が単独で演奏したものです。新実先生とのお付き合いはここから始まっています。

第17回では野田暉行「青春」の全曲初演、第18回は新実徳英「やさしい魚」全曲初演、第19回髙嶋みどり「かみさまへのてがみ」混声版初演、第20回新実徳英「祈りの虹」混声版委嘱初演、第21回は髙嶋みどり「感傷的な二つの奏鳴曲」と青島広志「タイタニック号の沈没」のいずれも混声版初演と毎回初演が続きました。「青春」「やさしい魚」以外は男声合唱曲からの再構成でした。「感傷的な二つの奏鳴曲」は前年の甍演奏会の委嘱初演されたものです。また、青島先生はプログラムに混声版作曲に至ったプロセスと混声版に対する想いを長文のメッセージで述べておられます。

新しい合唱曲を世の中に広めて行くことは関屋先生の以前からのお考えでしたし、作曲家のみなさんがメッセージで述べておられますが、関屋晋指揮湘南・松原での初演に期待をしてくださっていることはとてもありがたいことです。

二重合唱曲が多くなったのもこの頃です。第15回(1978年)に池辺晋一郎「恩愛の輪」は「親」の役割の合唱団を湘南が、「子」の役割の合唱団を松原が歌いました。プログラムのメッセージで関屋先生は「人数、実力の差がなくなり、バランスがとれるようになって、このような形で演奏できるようになったことが嬉しい」と書いておられます。その後も第16回ではマルタン「二重合唱のミサ」を、第18回はシューマン「四つの二重合唱曲」、第20回はベネヴォリ「kyrie」(四重合唱曲)とラッソ「kyrie、Gloria」(二重合唱曲)、第22回は萩原英彦「詩編103」を演奏しています。

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合同演奏会は1988年4月23日新宿文化センターで開催の第22回で幕を閉じました。晋友会発足以来ステージが増えてきて、この年にはベルリンでの小澤征爾指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との協演を含めて松原は年間25回のステージがありました。その中で合同演奏会の位置付けも変わってきた結果だったのだと思います。

しかし、松原にとって、そして多分湘南にとっても、合同演奏会が果たした役割は大変大きいものでした。この演奏会は「1+1=3になる演奏会」(第17回プログラムの関屋先生メッセージのタイトル)だったのですから。 合同演奏会復活が時折話題になります。昨年の「清水敬一還暦記念演奏会」ではプーランク「人間の顔」、野田暉行「青春」を清水敬一さん指揮で合同演奏することができ、改めてふたつの合唱団の結びつきの大切さを実感することができました。


※本稿に記載した内容は野村維男個人の意見・感想であり、松原混声合唱団としての見解ではありません。