松原むかしばなし(其の三)


松原混声に60年以上在団し、合唱連盟の活動でも活躍されている野村維男さんによる「むかしばなし」シリーズの第3回です。元は団員向けに執筆されたものですが、合唱文化の歴史の一端を知ることができる貴重な資料でもありますので、ご本人の了解を得て公開しています。

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練習会場

2020年4月23日
野村維男

今回は松原の練習会場についての「むかしばなし」です。

合唱団は練習できる場所があってこそ活動できるのですが、松原は昔から今まで練習会場確保に歴代の「会場係」さんを悩ませています。私は松原の活動をかなりマメに記録してきましたが、練習会場についてはあまりに日常的すぎて記録から漏れてしまっています。記憶も定かでないので間違いもありそうです。後半の本願寺、大橋の頃のことはご存知の方もおられると思いますから違っていたらご指摘ください。

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遠間家の応接間

私が松原に入団した約60 年前には松原の創立者遠間先生のお宅の応接間で練習していました。まぁ10人くらいのメンバーでしたからそれで済んでいたのですが、関屋先生が指導されるようになり人数が増えたこともあって他の会場を使うことになりました。しばらくは定期的に使える会場がなく、今週はこちらの幼稚園、次回はあちらの教会という練習が続きました。末広町の銭湯の2階にあるスタジオを誰かが見つけてきたこともあります。前々回のテーマでもあったのですが、携帯もメールもなく固定電話も少ない時代ですから連絡が大変でした。1回練習を休むと、もう来週の練習がどこなのか分からない、以後連絡が取れなくなって、いつの間にか退団となってしまう人もありました。

築地本願寺

1964 年に明大前にある築地本願寺別院(正式名称は和田堀廟所 以下「本願寺」)の教養会館を定期的にお借りすることができました。これで毎週同じ場所で練習が出来るようになり、それは初期の松原にとってメンバーの定着や練習の成果に大きなプラスだったと思います。

お借りしている見返りとして「花まつり」の時には「築地本願寺和田堀聖歌隊」に変身して歌ったり、築地の本院で仏教賛歌の演奏をしたこともあります。

数年後に隣接して「門信徒会館」という立派な建物ができました。2階に講堂のような広い部屋が設けられ、ここが新しい練習会場になりました。新しい広い部屋で良かったのですが、問題は夏。私たちのためだけに空調を使っていただけず、狭い窓を開けてもそれほど風が入るわけでもなく汗だくの練習になりました。最近のような猛暑だったら熱中症続発でしょうね。

夏の暑さや前号で書いた「お通夜対応」はあっても恵まれた練習環境でしたし、お寺さんの方も大らかでミサ曲などの練習も特に何も言われることもありませんでした。しかし新任の責任者の方が施設使用について厳格で「キリスト教の曲を歌うことは困る」とクレームがついてしまいました。継続をお願いしたのですが了承を得られず、他の練習会場を探すことになりました。

松原教会

1972 年11月明大前にある「松原教会」の聖堂が次の練習会場になりました。仏教からキリスト教へと節操のないことですが・・・ここでの練習が何時までだったのか資料がみつからないのですが4年くらいは続いたと思います。

コンクール全国大会初出場・金賞受賞(1973年)は松原教会での練習の結果だったわけですし、金賞受賞をきっかけとして始まった松原の単独演奏会(1974 年)の練習もそうでした。演奏会開催のために、練習を週 2 回とすることになりましたが、月・木ともに松原教会を使わせていただくことができました。

再び本願寺

松原教会での練習が定着した頃に、本願寺から打診がありました。「コンクールで優秀な成績を上げている合唱団ならば、ぜひ当院の施設を使ってもらえないか。」というものでした。コンクール全国大会での成果を認めていただいたのはうれしいのですが、ちょっとびっくりしました。すぐに定例の練習会場とはしなかったようで、1974 年 11 月に臨時練習の場所として再び本願寺の名前が登場しています。そして「練習する曲目は合唱団に任せる」という条件で 1977 年頃から再び本願寺で定期的に練習するようになりました。

松原は 1978 年にコンクールを「卒業」しましたが、活動の幅は広がり、1979 年に小澤征爾先生との出会いがあり、さらに晋友会としての活動へと繋がって行きました。

しかし、「お通夜」や「暑さ」などは忙しくなった松原にとって活動の障害になり、また新たな練習会場を考えなくてはならない状況になってきました。1984 年に長くお世話になった本願寺から大橋図書館(当時は大橋区民会館)に練習会場が変わりました。

大橋図書館

大橋図書館(大橋区民会館)は 1972 年から臨時練習場所として記録にたびたび登場します。1983~84 年には本願寺と並行して使っていたようです。1985 年からは木曜日の練習は大橋、ということが定着しました。以来 28 年間晋友会のステージが増えて、練習曲も多くなる環境の中でここでの練習が続き、いつの間にか「松原のホーム グランド」という感覚が強くなりました。あの「第一会議室」のドアを開けて、みんなが歌っている姿、指揮者譜面台がわりの演台、窓からの景色などを見ると「松原の練習に来た!」と感じたものです。

しかし、あるとき老朽化した図書館の建てかえが決まり取り壊されるという情報が入りました。大橋で練習していた他の合唱団約 20 団体との連名で目黒区「新設図書館にも合唱練習の出来 施設を設けてほしい」という要望書を出しました。区役所からの回答は「あの会議室はもともと旧区民会館にあったもので図書館に必要な施設ではないので新設図書館に設けるつもりはない」という、利用者にとってはポイントのずれた、実に説得力のない内容でしたが結局、計画変更されることはなく、2013 年 2 月 1 日の閉鎖が決まりました。

その前日は「つぶてソングの会」のために新実先生も参加された練習でした。練習後に最後の利用者として大橋図書館に別れを告げることになりました。

2013 年 2 月 1 日 閉鎖前日の大橋図書館
お世話になった大橋図書館とのお別れの記念撮影、新実徳英先生とともに

会場係のみなさんに拍手を

大橋を出てからの松原はみなさんご存知の今の状況、毎回違う会場での練習となりました。それは会場係のご苦労が増したことを意味します。大橋時代にも休館日の月曜日の練習会場確保は大変だったと思いますが、週2回、松原の人数が歌える広さで、音響に大きな問題がなく、ピアノがあり、使用料があまり高くなく、アクセスもそこそこ良い会場を確保するのはなかなか大変なことだと察しています。公共施設には「区民優先」とか「定期的利用を避けるための回数制限」などの制約があったりします。民営施設は利用料が高いという問題があります。このような厳しい条件のもとで確実に練習できる環境を整えてくれる担当幹事のみなさんに感謝の拍手を送りたいと思います。個人的には鍵開けなど、ささやかな協力をするつもりです。


※本稿に記載した内容は野村維男個人の意見・感想であり、松原混声合唱団としての見解ではありません。