松原混声に60年以上在団し、合唱連盟の活動でも活躍されている野村維男さんによる「むかしばなし」シリーズの第6回です。元は団員向けに執筆されたものですが、合唱文化の歴史の一端を知ることができる貴重な資料でもありますので、ご本人の了解を得て公開しています。
コンクール
2020年5月14日
野村維男
松原がコンクールを「卒業」してからもう43年経ち、最近はコンクールのスタッフとしてお手伝いする以外の接点はあまりありません。もっとも兼団している合唱団でコンクールに参加しているメンバーがありますし、学生時代にコンクールを経験している人も大勢いると思います。
コンクールの功罪についてはいろいろ言われますが、松原にとってどうだったのか振り返ってみたいと思います。
都民合唱コンクール
「其の二」で書きましたが、関屋先生が指揮者になられてまず活動の目標となったのは都民合唱コンクールでした。今はありませんが東京都と東京文化会館主催のコンクールです。松原の新たな出発のためにはコンクールを目指した練習は大きな刺激になりました。
都民合唱コンクールには1962年(第4回)から1967年(第9回)まで参加しました。1964年に「優秀団体」として表彰されてからは毎年「入選」か「部門第2位」と少しずつ評価されるようになってきました。

(東京文化会館はこの1年前の1961年4月オープン)
このコンクールには人数の上限があったと思うのですが、当時活躍していた有力合唱団が、課題曲と自由曲で歌うメンバーを全員入れ替えるという「怪挙」をやってのけました。しかも規則には定めがないという理由でこれが認められたことに私たちも違和感を持ったのですが、関屋先生は大憤慨されました。そろそろ合唱連盟のコンクールにチャレンジしても、というムードになっていたこともあり、この「事件」がきっかけとなり都民合唱コンクール出場を止めました。
東京都合唱コンクール
松原は1968年に第23回東京都合唱コンクールに初登場しました。名前は似ていますがこちらは東京都合唱連盟の主催です。自由曲は髙田三郎「水のいのち」より「雨」「水たまり」でした。
審査結果はAブロック第3位、何団体の中での3位だったのか一度調べてみたいのですが、合唱連盟には古い資料がなく分からないままです。
以来10年間、松原の合唱連盟コンクール参加は続きました。1969年から1972年までの成績は、ブロック2位>銅賞>銀賞>銀賞というものでした。着実にレベルは向上していたと思うのですが、全国大会へは遠い道でした。
この頃の全国大会東京代表は三友合唱団が常連でしたが、1970年に代表となったのはNHK放送児童合唱団(当時)のOGをメンバーとする東京トルヴェールでした。コダーイ、クーテフなどの選曲の新鮮さ、伸びやかな声、埼玉会館での全国大会で聴いた古橋富士雄先生指揮の演奏は衝撃的でした。もちろん金賞を受賞し、合唱が変わりつつあるのではないかと感じました。
湘南市民コールの全国大会
湘南市民コールは1968年(松原の東京都合唱コンクールデビューの年)に関東代表として全国大会に出場することになり、松原のメンバーも名古屋まで応援に行きました。また、1971年の福岡の大会には私を含めて3人の松原男声が「助っ人」として湘南に加わって出演しました。「松原が出場するときに備えての視察」という名目でした。
湘南は関屋先生と共に全国大会で3位、銀賞など上位での入賞を果たして、全国大会の常連になっていました。松原にとってはその活躍は眩しいものでした。「何時かはウチも」という松原のメンバーのモチベーションを高めたことは間違いないと思います。
全国大会へ
1973年10月14日の第28回東京都合唱コンクールに松原はコダーイ作品を自由曲として出演し、初の金賞を受賞、東京代表として全国大会に出場することが決まりました。この年に複数の若い優秀なメンバーが加わったこともあって、手ごたえのある演奏ができたと思います。合唱連盟のコンクールに参加するようになって6年目のことでした。
この年は私が東京都合唱連盟の主事(現在の事務局長)に就任しており、ステージ上から自分の合唱団の金賞を発表するという少々面映ゆい役割を演じました。
東京代表となったことを湘南のメンバーが我がことのように喜んでくれましたし、その湘南も関東代表として6年連続出場を決めて、ダブル出場となりました。
全国大会の会場は岡山武道館、多角形の体育館でスタンドの一辺に舞台と反響板を仮設してありました。今のように主要都市には立派な音楽ホールがある時代ではなくコンクール会場が体育館であることは普通でした。

本番前、私たちは仮設舞台の裏の薄暗いスタンドで待機し、出場順2つ前の湘南が歌っているのをそこで聴いていました。関屋先生は湘南を指揮してから松原の待機場所に合流されるという忙しさでした。
そして本番、一般の部は11団体(東北、関東が2団体ずつ、あとは各支部1団体)の出演でしたが、そのなかで松原の43人というのは際立って少人数でした。それほど緊張せずに歌い終わり、個人的には少し不満も残りましたが初めての全国大会としてはそれなりの出来かな、と思いながら2階客席で他の団体の演奏を聴きました。
審査結果の発表は銅賞からでしたが、銅賞4団体で呼ばれず、銀賞では湘南など4団体が呼ばれてその中にも入らなかった時は賞外も覚悟しました。
次の瞬間「金賞 東京支部代表 松原混声合唱団」というアナウンスを聞き、2階正面の客席は大騒ぎになりました。
関屋先生は「今までにないタイプの合唱団が評価されたのだと思う」と「ハーモニー」誌のインタビューに答えておられました。
金賞団体は表彰式のステージに7人上がるように、という指示がありました。
近年はどの部門も出演団体の3分の1程度が金賞を受賞していますが、この時は一般部門で1つだけ。松原が受けた賞は、金賞(賞状、メダル、額)、文部大臣賞(当時)、岡山県知事賞、岡山市長賞、NHK賞、津川賞、カワイ賞、受け取る人数が7人も必要なわけです。
表彰式後の打ち上げは、前日、岡山駅前のホテルに湘南と合同で予約をしていました。湘南としては松原に先を越されたことには相当思うところはあったでしょうし、松原としても手放しで喜べる状況ではなく、何となく気まずいなかで終わりました。松原は宿に戻ってからの二次会で大爆発でした。


ポスト金賞
金賞受賞という「事件」は松原の活動を劇的に変えることになりました。いろいろな催し、レコーディングなどの依頼を受けることになりました。特にNHKコンクールの課題曲発表演奏に出演するようになったことで、多くの作曲家とお付き合いができましたし、テレビを通じて松原の知名度が上がり、各地の高校や大学での合唱経験者がメンバーに加わるようになりました。湘南との合同演奏会に加えて、松原単独での演奏会を開催するようになったのも「金賞」がきっかけでした。この延長上に小澤征爾先生との出会いや晋友会もありました。
全国大会はその後、福島、神戸、高松、東京の4回出場しています。松原は4回とも銀賞でしたが、神戸では湘南が京都エコー、神戸中央合唱団と並んで金賞を受賞しました。
松原の自由曲を見るとピツェッティ、バディングス、R・シュトラウス、ロパルツというラインアップ、関屋先生の選曲に対する意気込みを感じます。私たちもこれらの曲は大きな刺激となりました。
しかし、1977年の第30回全日本合唱コンクール全国大会(東京・普門館)の後の打ち上げで関屋先生からコンクールからの撤退のご意向が示されました。
関屋先生としては新しい方向性を求められていたのだろうと思います。コンクールに出場し一定の評価を受け続けるためには選曲をはじめさまざまな「戦略」が必要で、場合によってはご自分の音楽観とのギャップなどを感じられていたこともあったのではないでしょうか。
コンクール卒業
コンクールに出るかどうか、コンクールのウェイトが松原の活動のなかでそれなりに高かったため、団内で大きな議論になりました。そこに1978年9月に小澤征爾/新日本フィルでドボルザーク「スターバト・マーテル」演奏という夢のような話がもたらされ、コンクール撤退への動きが一気に加速しました。私は実は「コンクール継続派」で、この1年間だけ休む選択肢もあるのではないか、と思っていました。今は撤退が正解であったと自分の不明を恥じていますが・・・
結局は関屋先生の強いご意向もあり、この年でコンクールを「卒業」することになり、松原の前に別の素晴らしい世界が開けることになりました。
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コンクールについて考えてみると、声楽や器楽のコンクールは「登竜門」で、それをきっかけとして新たなステージに移行するという感じなのですが、合唱のコンクール(吹奏楽もそうですが)はそこで得た「地位」を長期に渡って維持することに意義があるようにさえ見えます。
成長過程にあった松原の場合は結果としてコンクールを上手く「利用」してステップアップしたと言えるかもしれません。だからコンクールの「罪」の方、つまりコンクール至上主義となって、合唱団にとって大事なものを置き去りにするようなことはあまりないまま通過することができたのではないか、と感じています。
※本稿に記載した内容は野村維男個人の意見・感想であり、松原混声合唱団としての見解ではありません。
編者追記;
コンクール全国大会金賞受賞のくだりは、いろいろな方からお話しを伺いました(特に飲み屋で)。やはり勢いみたいなものがあったのでしょうか。私自身もコンクールに出場し続けていますが、コンクール一辺倒にならないように活動のバランスを取るように心がけています。ちなみに何回言っても信じてもらえない話ですが、松原がコンクールを卒業した年、新実先生が「幼年連祷」の「花」を作曲された年、1977年(昭和52年)は、私の生まれ年なのです。(真下洋介)