練習のために集まれない今、松原混声の団員専用ページで毎週木曜日に発行されている「松原つうしん増刊号」。そこには、常任指揮者 清水敬一先生のメッセージや団員からの投稿と合わせて、この機会に松原混声の歴史を振り返ってみようという特集記事が、毎号様々な切り口で掲載されています。
その中から「松原むかしばなし ~団内のコミュニケーション~」を、執筆者である野村維男さんのご了解のもとに紹介したいと思います。インターネットも携帯電話もなかった“あの頃”、団員同士はどのようにコミュニケーション取っていたのか。昭和時代の合唱活動の貴重な証言ともなるむかしばなしを、どうぞお楽しみください。
新型コロナウイルスの感染拡大で世の中が大変なことになってきました。真下「編集長」から、こんな時に「むかしばなし」をしてみたら、という奨めに乗りました。松原の練習がこれほど長期間休みになったことは初めてです。練習で毎回、時には毎日のように顔を合わせていた仲間と会えなくなっても、現在はSNS などいろいろなメディアの活用が可能ですが、昔はコミュニケーションを保つのも大変でした。
「伝言板」
いつの間にか無くなりましたが、以前は各駅に「伝言板」というものが備えられていました。小型の黒板に罫線が引かれていて、利用客同士の連絡が記入できるようになっている物です。「2 時間待った。もう会いません」などと書いてあったりしました。
松原は1972 年秋頃まで明大前のお寺の施設で練習していました。定期的に使わせて頂けてとてもありがたかったのですが、お通夜などで使えなくなることがありました。なにしろ「お通夜」ですから何日も前から「予約」が入るわけがなく、松原には良くて前日、多くは当日連絡が来ました。携帯やメールがない時代です。そこで明大前駅の「伝言板」を使って練習の中止あるいは練習会場の変更を書き込みました。団員には毎回練習に向かう時に必ず駅の伝言板を確認するように伝えてありました。今では懐かしい原始的なコミュニケーション・ツールでした。
「週刊松原」
今は毎回の練習の様子や連絡事項は、幹事から欠席者にもメールで知らせてもらえます。メールどころか固定電話もあまり普及していない頃は、一度練習を休むと「情報難民」になるおそれがあったのです。
そこで考えたのが、欠席者にハガキで連絡すること。当時の練習日は木曜日だけでしたので、練習から帰宅するとガリ版(死語ですね。蝋紙の原紙に鉄筆で文字を書いて謄写印刷する代物)でハガキに印刷して欠席者に翌日郵送していました。単なる連絡文ではつまらないので「週刊松原」として記事調の文章にしました。
第1号は1970 年9 月24 日付です。記事は2本。トップは「コンクールせまる」。10 月11 日の東京都合唱コンクールのことと臨時練習の日程、そして演奏曲がモーツアルト「テ・デウム」であることが書かれています。もう1本は10 月から会費を値上げするという記事。月・一般1000 円、学生600 円になったようです。第3号にはコンクールで「銅賞」だったことが載っています。
「週刊松原」を辿って行くと、この頃の松原の様子が良く分かりなかなか興味深いものがあります。数週間おきに団員の婚約、結婚のニュースがあったりして、みんな若かったのですね。「週刊松原」が欲しいから練習を休むという人もいました。もちろん冗談ですけど。
結局、1977 年7 月14 日の第199 号で発行は止まりました。1973 年の全国大会金賞を期に練習が週2 回となり、また編集長兼印刷工(つまり私)もそこそこ忙しくなって続かなくなった、ということです。でも、この頃の松原でそれなりの役割を果たすことができたのではないかと思っています。
2020年4月11日 野村維男